「大人になる」ってどういうことだろう

湯川友太

湯川友太

特派員

この問いは中々難しい。答えが一つに定まるものでもない。

手始めに「大人っぽい」「大人になったな」と感じた瞬間について考えてみよう。

パッと思い浮かぶのは、わさびを美味しいと感じた時だろうか。


小学生の頃、僕は回転寿司でいつもさび抜きボタンを押してた(今はネタと共に回ってくるわさびパックを取るシステムになった。時代の変化を感じる)。あの頃はあんなツーンとするものを一緒に食べたら、魚の味が台無しになると思っていた。
中学生になって、ちょっといい焼肉を食べにいった時に、脂身が多いステーキの付け合わせにわさびがついてきた。「わさびを付けてお召し上がり下さい」と店員さんに言われ、恐る恐る、ちょびっとつけてステーキを口に運んだ。
するとどうだ、美味しいけど脂っこくて重いステーキが、なんともさっぱり、ペロリと食べられるではないか。あのツーンとした風味は、脂身と相性バッチリなんだと気づけた喜びは一入だった。

しおからやブルーチーズを美味しいと感じた時もそんな瞬間の一つだろう。
いわゆるお酒のアテは、中々クセの強い風味で「大人の食べ物」というイメージが強かった。これらをペロッと食べて「友太の舌は大人だな」と言われた時には、背徳感と共に誇らしさを覚えた。

子供の時に食べれなかったものが食べれるようになる。これは確かに「大人になったな」と感じる瞬間だ。しかし気づいた。
「ちょっと待てよ。これって『鈍感』になってるんじゃないか」

なぜ子供がわさびやお酒のアテを食べられないのか。それは子供の味覚、嗅覚が敏感で、辛味や臭味といった刺激に耐えられないからだ。
それが食べられるようになるということは、感覚が麻痺しているとも言えるだろう。

「鈍感になる」というと、食べもの以外にも思い当たることがある。

皆さんは「ナルニア国物語」をご存知だろうか。全7巻に及ぶ児童向け小説シリーズで映画化もされている。僕は小学生の時にこれを読んで「物語っておもしれー!」とrealizeした。僕が小説を読み始めるきっかけとなった作品である。
高校一年生の頃だったか、ふと思い出して「ナルニア国物語」を読み返したことがあった。もちろん面白かったのだが、小学生の時ほどの感動を見出すことはできなかった。

映画やドラマを見て、涙を流すのも最近減った気がする。
高2の頃から読み始めた短歌も最近あんまり詠めず、詠めたとしても詠んだ自分の心の動きがイマイチ伝わらない。

僕の心は「不感症」になってしまったのか。それが「大人になる」ということなのだろうか。

ここまで結構悲観的な見方をしてきたが、「大人になる」ことは別に悪いことばかりではない。子供の時には経験できなかった味が楽しめるようになるのだから、「大人になった」僕の世界は確実に広がっているのだ。

心だって完全に死んではない。この夏に放送されている「海のはじまり」というドラマには毎話毎話心を動かされている(詳しくはまた別の記事で)。藤井風の音楽を聴いて愛に満たされ、海を見て「広いな大きいな」以上の何かが胸に込み上げるだけの感性はある。

さらに幸いなことに、僕はまだ、一般的に「大人」と言われる年齢(20歳)でも立場(社会人)でもない。ギリギリのteenagerで大学生、モラトリアムだ。

子供の時には開けていなかった世界で、春が青いと感じられるように生きていく。そんな、今の僕だからできるやり方で、特派員の任を果たしていきたい。