だからボクらは竹でメシを炊く

大福聡平

大福聡平

最高学習責任者

学びとは何なのか、自分なりにどう定義したらいいのか分からなくなっている最高学習責任者です。

僕がリベルタ学舎に参画するきっかけとなったのは、「ワガママSDGs」という中高生向けの実践教育プログラムでした。

ワガママSDGsは、参加した中高生の日頃の違和感から出発して、社会課題を解決する手段を企画し実践してみるところまでをサポートするプログラムです。

その中で、参加している中高生の学びをどう測るか、をよく議論していました。

1年目はOECDが定めているこれからの時代に必要な「キー・コンピテンシー」を独自のルーブリック(評価基準表)に落とし込み、参加者がルーブリックのどの段階まで到達したかを観察やインタビューから明らかにする、という手法を取っていました。

↑作成したオリジナルルーブリック

やってみた結果、一番に思ったのは「これじゃない」感。

学校の中ではない実践的な経験をベースにした活動だからこそ生まれる、自由で個別具体的な学びを大事にしたかったのに、彼らの経験を「問題発見力」だとか「協働力」だとか、それっぽい言葉に集約していく作業そのものに、強烈に違和感を覚えたのでした。

ルーブリックで表せない気づきや発見や変化は学びとは言えないのか、価値がないものなのか。いやいや、そんなはずはない訳で。

学びと評価は切っても切り離せない関係性にあります。なぜなら学び(とか教育)にはコストがかかるから。コストがかかる以上、それに対して見合う成果が出ているのか(費用対効果があるのか)という説明責任が発生します。

けれど、学びってそんなに単純なものではない、ですよね。時間もかかるし。いつ芽が出るか分からない。

まぁ、みんなそんなこと分かってるんだけれど。一方で今の社会システム上、そうせざるを得ない現実がある。

それに対して、何ができるのか。これを追求することが僕がリベルタ学舎でやりたいことかなと思っています。

「評価軸を多様にすること」と「自然の一部として学ぶこと」

今ある仮説は「評価軸を多様にすること」と「自然の一部として学ぶこと」。

評価軸が多様にあることで、これまでの基準でこぼれ落ちていた学びの成果を拾い上げたい。むしろ「評価しない」ことがそれに繋がるのかも。

そして、自然=「コントロール不可能なもの」との関わりを前提とすれば、もはや評価しようがない、費用対効果で測れない状況が生まれます。

なぜなら自然の中では、どれだけ頑張ってもうまくいかないこともあれば、適当にやってうまくいくこともある。

逆に言えば、何もかも制御可能だという前提に立つからこそ、学びもきっちり評価できると考えてしまうし、費用対効果を(しかも短期間で)確かめようという話になってしまいます。

そんなわけで、目下取り組んでいるのは「ワガママ・ヴィレッジ」。

神戸市西区にある耕作放棄地/放置竹林を舞台に、やってみたいことをやってみるコミュニティを作っています。

そこで生まれる学びは、「竹で焚いたご飯のウマさ」かもしれないし、「文明のありがたみ」かもしれないし、「変な大人の存在」かもしれない。

そんな、ルーブリックに集約されない学びが生まれ、大事にされる環境を作りつづけたいと思うのです。

インスピレーション文献:
「脱学校の社会」イヴァン・イリッチ
「コンヴィヴィアリティのための道具」イヴァン・イリッチ